コラム vol.81
エッジを立てるということ
いつのことでしょうか、飲み屋にいると「エッジを立てる」という言葉をよく耳にする時期がありました。
意味としては「尖る」「特化する」というニュアンスで使われているようです。「〇〇さんはエッジが立ってますね~。ハハハハハ~」という使い方が一般的ですね。
そして、ぼーっと世間の荒波を傍観していて気がつくことは、このエッジの立て方は人それぞれ違うということです。
エッジが立っている有名人といえば、芸のために色々とストイックなお笑いの松本人志さんがいますね。彼が若い頃に出版した「遺書」という自伝の中で結婚をしたら自分がつまらなくなるからしないと書いていたそうです。結果として彼は結婚をしましたし、ご自身で書いていたように昔のような鋭さは見えなくなりましたが、その代わりにまた別の魅力が出てきたように思えます。
例えるならば研ぎ澄まされた日本刀のようなものなのかもしれません。無駄を削ぎ落として精錬された特技というのは、やはり目の当たりにするとはっと息を呑む美しさがあります。ただ、日本刀も「斬る」という分野においては特化していますが、それ以外の角度からの衝撃に対しては案外脆いものです。そして、ある時点で無駄だと削ぎ落としてきた物の中に何かを見出すのでしょう。
エッジを立てるということは言い換えれば目的遂行のための「合理性」を追求し「無駄」を省くということです。 ただ、注意するべきなのは人によって「目的」というものは異なるため、ある人から見たらその行動は合理的かもしれませんが、別の人から見たらそれは無駄なのです。その逆もしかりで、ある人にとって無駄に見える行為も別の人が見たら合理的なのです。
そう考えていくと物事に合理性からアプローチしても、無駄からアプローチしても帰結する答えは一緒なのではないかと思ってしまいます。なぜなら人の持つ価値観とは一生を通じて常に一定ではないからです。
以上の仮説を根拠に、ものぐさな自分はあえて無駄からアプローチしてみようと試みておりその壮大な実験は現在進行中です。