コラム vol.75
ふりだしにもどる
すごろくの難所といえば「ふりだしにもどる」のマスですね。 必死になってサイコロを振っていたにも関わらず一番始めのマスに戻るというイベントは、 ゲームを作った人間の人間性を疑ってしまいます。
実生活というのも一種の人生ゲームのようなすごろくであるわけですが、やはり必死になってサイコロを振っているにも関わらず「ふりだしにもどる」ことがままあるわけです。
ただ、現実の人生ゲームは必ずしも分かりやすく「ふりだしにもどる」という表示があるわけではなく、知らず知らずのうちにふりだしにもどされていることがあるようです。
今、この記事を書いているのは大学時代によく本を読みに通ったチェーン店のカフェですが、値段が安く、目の前に川が広がっているのでよく利用していました。 今日、ここにいるのも別に来ようと思ってきたわけではなく、なんとなく作業場所を探していたら行き着いたという感じです。
大学時代は、お金が無いので図書館で借りた本をコーヒーを飲んで煙草を吸いながらずっと暇を潰していました。
今はというと本の代わりに目の前にノートパソコンがあって、ガラケーがスマホに代わり、コーヒーを飲みながら健康のため軽くなった煙草を吸ってこうして暇を潰しており、そしてお金が相変わらず無いのです。
正直なところ、10何年経過してほぼ同じことをしているという事実に直面すると愕然としてしまいます。 もちろん当時から考えると色々な経験を積んできたわけですし、ある意味大人になっている部分もあるはずですが「まあ、仕方がないか」と諦観の念が生じています。
作家の故中島らも氏が、「教養とは学歴のことではなく一人で暇を潰せる技術」とおっしゃっていたそうですが、最早自分の座右の銘になりつつあります。
こうして毎日サイコロを振って、ゴールがあるのかないのか分からないすごろくを死ぬまで遊び続けるというのも考えようによっては悪くはないですね。