コラム vol.70
マナーという名の儀礼と弊害
日々生活していると目にする「マナー」という言葉。
人間関係を円滑にするために重要な儀礼であるマナーなくしては、社会は成立しないと思いますが反面行き過ぎたマナーがもたらす弊害というものも同様に存在します。
ライフスタイルを語る上で不可欠となる「マナー」というものについて改めて考えてみました。
就職活動のマナー
社会に出て特に聞く機会の増えた「マナー」という言葉ですが、一番顕著であるのは就職活動においてではないでしょうか。
ハローワークなどが実施する職業訓練のなかに「マナー講座」というものがあり、勤めていた会社を辞めて時間がたくさんあったので受講したことがありました。
講師は一般企業で長年営業マンを務めていた初老の男性でした。
その方からは多くのビジネスマナーについて熱心にご教授していただいたのですが、面接時入室前のノックの作法について驚くようなことを述べられてしました。
「ノック2回はトイレを叩くとき、ノック3回は親しい人を訪れるとき。面接のときは2回と3回の間を狙って叩いてください」
そして、「カカカッ、カカカッ、カカカッ」と結構な回数練習した記憶があります。
昔週刊少年ジャンプで連載されていた「るろうに剣心」という漫画の登場人物の技に「二重の極み」という相手に拳を一瞬で2回叩き込む技がありました。中学生のときによく真似をしていましたが、まさか大人になって再びやることになるとは思いもよりませんでした。
そして、敬礼についても体を90度に折り曲げて「ありがとうございました」と大きな声でお腹の底から声を出して実演をしていただきました。
本当に親身になって指導していただいたのですが、私は意図せず爆笑してしまい大変申し訳なかった思い出があります。
最近はこのようなマナーを事前にしっかり勉強し身に付けるものの「私をモノに例えると潤滑油です」という、画一的な受け答えをするヌルヌルな就活生が増えているそうです。
形骸化するマナー
新卒で入社した会社で初めに配属された部署が北米の海外営業部でした。現地に出張をした際に取引先の方から名刺をいただきましたが、会社の研修で教えられた所作ではなく片手で普通に配っていました。
それはとても衝撃的なことでした。
そして心の中でつぶやきました「数時間かけて教えられた内容は一体なんだったのか」と。
よくよく考えると、なぜ情報のやりとりの名刺交換にそこまで儀礼的なものが必要なのかという話です。 ただ、日本の商慣習であるためこれを一概に否定して勉強をしないというのもよくないとは思います。
これは日本の文化や教育から発生したものなのか、それとも「リクルートスーツ」という言葉が表すように企業がマナーを商品としてパッケージ化した結果発生した現象なのか。いずれにしても、このような儀礼的なものに過剰にエネルギーを注いでいることが日本の労働生産性を下げている要因の一つではないかとも思っています。
マナーの目的
やはりマナーの本来の目的は相手に不快な思いをさせないということにあるのでしょう。
人間という生き物はある種の「動物」であるということは周知の事実ですが、知性を有している点が他の動物と異なります。
動物であれば本能の赴くままに狩りをし獲物を喰らい寝て暮らすわけですが、人間は知性の獲得、文明の発展と同時にこの「本能」的な行為についていつからか制約をかけるようになりました。
狩りで獲得した獲物を食器など用いず手で直接貪り食べる、場所を選ばず用を足す。現代社会でマナーとされるものを振り返るとこのような「本能」に直結した行為は様々な手段によって人の目から隠されるようになってしまったのだと思います。
なぜ隠す必要があるのかという理由については、本能的な行為はやはり人々の目に醜くく映るのだと思います。しかし、「醜い」と判断するようになった理由の一因に文明が発展し高度に合理化システム化される社会において、本能的な行動は社会システムを阻害すると判断されたため「マナー」という形で排除されていったためではないかと考えます。
つまり、現代普及しているマナーというものは人間の内面から生み出されたものと考えるよりも社会の要請によるものではないかということです。
現代のように高度に合理化されシステム化された社会が要請しているものが、画一的で自分の意思を持たないロボットのような人間であるなら、それに対してやはり疑問を持つことは人として重要なことではないでしょうか。
編集者のつっこみ
人工知能の発達で個性豊かなロボットが増える中、逆にロボット人間が増えないか心配な今日この頃です。そして最終的にはドラえもんの鉄人巨団的な…ブルブル。