スタンダートとアナーキズムと|だいごの四方山コラム|ローソファ専門店 HAREM

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ライフデザイナーだいご の 四方山コラム

インテリア、ライフスタイル、何気ない日常の気付きなんかをゆるーくコラムにしています。

コラム vol.71 

スタンダートとアナーキズムと

 年齢を重ねたせいか最近よく昔の曲を聞き直します。 最近のお気に入りはMr.Childrenの「CROSS ROAD」でしょうか。

 乾いたベースの音と幻想的なキーボードでイントロが始まり、恋や愛といった内容のありきたりな歌詞をのせる。 小林武史がプロデューサーをしていたときのミスチルの曲の中では「ザ・スタンダート」という感じで一番好きです。

 自分が青春時代を過ごした90年代のヒット曲は映画のエンディングに使われそうな、どこか寂しげな曲が多かったような気がします。 バブルの狂乱が終わった後の「失われた10年」と呼ばれていた時代が、カラオケのオールの終盤のような雰囲気だったからかもしれません。

スタンダードを否定する風潮

 90年代だからなのか、年齢的なものだったのか、自分の周りがそうだったのかは知りませんが、あの当時オリコンのヒットチャートを賑わせる曲は「ダサい、カッコ悪い」という対象でした。

 そういったものよりも洋楽やもっとアンダーグラウンドな音楽を聞くことがカッコいいという不文律がありました。 その当時はオアシスやレディオヘッドというようなUKロック、ニルバーナやフー・ファイターズといったグランジ・ロック、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンやコーン、マリリン・マンソンといったミクスチャー、ハードコア、メタルとどんどん激しいジャンルへとその対象がエスカレートしていった気がします。

 とにかく「スタンダード=悪」という謎理論が頭を支配していたので、メジャーや規則といったものから外れるような行動をあらん限り考えて実行しました。「もっと激しく、もっと激しく」ということに最上位の価値を置いていたのです。

 きっと日常に感じる閉塞感の反動で知らず知らずのうちに「アナーキズム」というものに対して憧憬の念を抱いていたのでしょう。 若気の至りでもあり、一種の病気だったんだろうなとも思います。

狂乱もいつかは終わる

 しかし、お祭りもいつかは終わるように自分の中の狂乱はいつまでも続かないものです。

 人生のモラトリアムである学生時代もいつの間にか終わり、社会に出るとやはり色々と学ぶことがあり日々の忙しさや色々な大人の事情が頭の大部分を占めるようになり、いつの間にか音楽への関心が薄まっていくのです。

 そうして心身ともに疲弊していくと、聞きたくなるのはあれだけ求めていた激しい音楽ではなく、恋や愛といったものを歌うスタンダードな曲になるのです。

 よくおじさんが居酒屋で演歌を聞いて「あー、いい歌詞だ」ということを言っていて、「あーはならんぞ」と思っていたのに、居酒屋でラジオから流れる曲の歌詞を聞いて「あー、いい歌詞だ」と言っている自分がいるという事実。

 「嫌よ嫌よも好きのうち」というのはこういうことなのか、見えない螺旋がうっすらと姿を現し自分がその上に乗っていることを日を追うごとに実感していくのです。

スタンダードがあるから

 とはいいながらも自分の深層心理に刻みこまれた「スタンダードから外れる」という価値観は根深いものがあり、総体的には物事に対する姿勢はあの当時と変わってはいない気がします。

 ただ、気がつくことはスタンダードがスタンダードとしての役割を果たすから、自分のような人間が輝けるということです。 例えるなら文化祭の準備をサボる男子に対して「ちょっと真面目にやってよ〜」とキビキビと運営する女子がいるから文化祭が成立するということに近い気がします。

 最近は、「Cool Japan」というキャッチフレーズが出るほど隆盛を極める漫画やアニメ、アイドル、そして音楽にしてもミュージシャンの名前の中に「ぱぴぶぺぽ」が含まれている奇をてらったようなものが文化のスタンダートとして捉えられる風潮があるようです。

 基本的にそういった「サブカルチャー」は表に出てはいけない「人間の闇」だと思っていて、官公庁や大手企業が宣伝のためにそういったものを全面に押し出す風潮というのはやはり歪んでいると思います。

 スタンダードはスタンダードの役割があって、サブにはサブの役割があるということを今一度考えなおしてみましょう。


編集者のつっこみ

私も学生時代にハードコアやパンクで反骨精神を磨いてからの、社会に出て「wow war tonight〜時には起こせよムーヴメント〜」の歌詞に泣いたタイプです。

>> コラム vol.72 目的地と寄り道の狭間に