ライフデザイナーだいごの四方山コラム
四方山コラム
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コラム vol.49
日本を代表する建築家「安藤忠雄」が手がける住宅建築

安藤忠雄グランフロント

”安藤忠雄”という名前は一度は聞いたことがあるものの、そういえばどんな人物でどんな建築物を手がけているかという事をあまり気にかけた事がない方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 事実、私は小学校くらいに母親から「安藤忠雄は、学校にいかずプロボクサーから独学で建築家になったすごい人」という話を聞いて「へー」と相槌をうっただけで終わった記憶があります。

 しかし、以前安藤忠雄氏の関係者の方と偶然飲み屋でお話をする機会に恵まれた事と、こうしてソファー屋さんにコラムを書いていく中で”建築”というものに興味が湧いたので少しご紹介したいと思います。

『安藤忠雄とはどんな人?』

 ビートルズを彷彿とさせるマシュルームカット、高名に反して気さくな大阪のおじさんのような口調の安藤忠雄氏はどのような経緯で建築家になったのでしょう。

 生まれは大阪、祖父母に養子に出された安藤忠雄氏は周辺に木工所、鉄工所が立ち並ぶ下町の間口二間、奥行き八間という長屋で幼少期を過ごします。この時期に周囲の町工場に入り込んで遊んだ経験がおおいに役に立ったそうです。

 学業はあまり得意ではなかったという安藤忠雄氏ですが、中学生のときの数学の先生が言っていた「数学には美学がある」という言葉はなぜか頭に残っているといいます。

 そして工業高校を卒業をした後、大学へは進学せず様々な建築設計事務所でのアルバイトを通して独学で建築士試験に合格しています。プロボクサーになったのもこの時期くらいなのでしょうか。

 その後、バイトで貯めた資金を元に四年間海外を放浪しますが、インドのガンジス川付近で死体の側で沐浴する世界を見たことで自身の生き方の方針を確立したそうです。そういえば、グラフィックデザイナーの横尾忠則氏が「インドは行く人を選ぶ」という事を言っていたそうですが、もしかしたら選ばれてしまったのかもしれませんね。

 こうして、安藤忠雄氏は独立して建築事務所を設立し建築家としてのキャリアをスタートさせます。

『安藤忠雄氏の住宅建築の特徴』

 安藤忠雄氏といえば「光の教会」、昨今大阪にできた「グランフロント」といった公共建築に関わっているイメージがありますが、初期は「住宅建築」の設計からスタートしていました。

「打ちっぱなしのコンクリート」「カクカクとした外観」「外観と反して幾何学的な広がりを持つ室内」。私が感じた安藤氏の建築には以上の特徴があります。このような建物は「モダン建築」呼ばれ安藤忠雄氏はル・コルビュジエと呼ばれるフランスの建築家に影響を受け、自身の飼い犬にもその名をつけたという逸話もあります。

 安藤忠雄氏の名を世間に広める事のなった住宅建築代表作「住吉の長屋」。間口二間奥行き八間というまさに自身の生まれ育った条件の下町に、コンクリートの箱を出現させた安藤氏の手法は「劇的ビフォーアフター」のはしりともいえるのではないでしょうか。

 ただ、あまりに実験的なコンセプトのため居住性という意味では「冬にスキーウェアを着て過ごす」「全面ガラス張りだから日中暑い」という声もあるようです。しかし、それ以上に「安藤忠雄の空間に住みたい」という居住性よりもそこから得られるインスピレーションに価値を求める人が施工を依頼するのかもしれません。

『安藤忠雄氏の講演会』

 以前、安藤忠雄氏と読売テレビの辛坊治郎氏主催の講演会に用事があって参加する機会がありました。

 大分以前の事なので、詳細の内容は覚えていませんが確か大阪の都市計画の話をしていた気がします。「大きな箱の中に大きな玉子のような球体を設置したい」という事もおっしゃっていたましたが、飲み屋で素性を知らずにこの話を聞いていたら危ない人だと思っていたかもしれません。

 一つ個人的に一番印象に残っていたお話は大阪にある中央公会堂と呼ばれる年季の入った劇場の内容です。設立の際当時として100億近い金額を提供した相場師がいたそうですが、結果的に破産してピストル自殺をしてしまったというエピソードです。

 建築物や文化というものはやはり時代時代のパトロンによって支援されていて、そのパトロンがいなくなっても文化や建築物はこうして100年近く残っていると考えると、建築物というのはある意味色んな人生のコラボレーションなんだなと感銘を受けた記憶があります。

今回の結論として「エネルギーの塊」という単語が相応しい、まさに芸術家と呼べる人物が安藤忠雄氏なのではないでしょうかという事で締めくくりたいと思います。